お役立ちコラム

キニナル・コトバ 第2回 「ChatGPT」と「不気味の谷」

 出ました、ChatGPT。最新のAI対話型人工知能「文章作成」システム。というんでしょうか。
 質問や簡単な要求を入力すれば、AIが答えてくれたり、論文から小説、詩などでも、なめらかな自然の文章で生成してくれる、というものです。
 今や、Googleの初期を超える勢いでユーザーが増えている、というChatGPT。開発企業のOpenAIのCEOが日本を訪れ、岸田首相と会談したり、一方でイタリアのように使用を制限する国があったり。ChatGPTって、一体何なんでしょうか。

■「ChatGPT」とは何か

 ChatGPTは、アメリカ・サンフランシスコの人工知能を開発しているIT企業、Open AI社が開発したシステムです。
 使い方は簡単。インターネットで、ChatGPTのサイトに行き、メールアドレスとパスワードを登録すれば無料で会員になれます。中に入ると、1行だけの簡素な入力欄があって、質問を書き込めば、ChatGPTがしばらく考えて回答をくれます。英語で入力すれば英語で回答し、日本語で入力すれば日本語で答えをくれます。
 たとえば、私が自分の名前を入力して、「〇〇〇〇について教えてください。」と書きこみます。
 するとChatGPTは「〇〇〇〇は、明治から大正時代にかけて活躍した文筆家、小説家、エッセイストです。彼の主な作品には「××」「▲▲」があります。」などというように答えてくれます。
 ChatGPTは、「大規模言語モデル」を元に構築されたものということです。数十億もの(無数に近い数の)テキストデータで自己学習を行い、少しの言葉で尋ねるだけで、膨大なデータの中から自然に近い文章で回答を与えてくれるそうです。
 作家やプロのライターでなくても、上手な文章で表現してくれ、短期間で膨大な量を書いてくれるので、書き手の職が不要になるんじゃないかとも言われました。
 私の商売も上がったり、なわけです。

■「ChatGPT」はトンチンカンな回答を返す

 ところが、話題になったのはこの回答っぷり。
 先の「明治時代から大正時代にかけて活躍した文筆家…」というのは、実際に自分のことを尋ねた時にもらえた回答です。でも、私は明治や大正時代には生きていませんし、大文豪でもありません。
 ChatGPTは、なめらかな文章でまとめようとするあまり、ウソを平気で書く欠点があるようなのです。論文や記事を書くように要求した人が、元になった論文を示すように命じたら、ずらりと挙げてきたけど、全部架空のものだった、なんてこともあるようです。
 これまで、コンピュータの作るものというのは、どこか無骨だけど、ウソがないのが利点でした。ところがChatGPTは、その敷居をいとも簡単に超えてくるのです。
 これだと、フェイクニュースも簡単に作れてしまう。今の荒唐無稽な回答ならまだましです。でも、これがウソと見抜けないほど高度に進化してしまったら。もう、何が本当なのか、分からないような世界になってしまいますよね。

 今は、ChatGPTの珍回答っぷりを面白がる書き込みが、SNSにあふれています。
 しかし、機械学習システムの進化、自己学習のスピードは予想以上に速いもの。今はみんな笑っているけれども、すぐに笑えない時がやってくるのではないか。ChatGPTの発する巧妙な、しかも大量のウソに、我々は踊らされてしまうのではないか。

■「ChatGPT」の迎える「不気味の谷」

 そこで思い出すのは、「不気味の谷」です。不気味の谷、とは、ロボット工学者の森政弘が唱えた現象です。人形をどんどん人間に似せていくと、最初は「かわいい」とか、親近感を持ちます。しかし、ある一定のレベルを超えて人間に近づけてしまうと、急に「気味が悪い」「不気味だ」と思うようになるのです。親近感を示す曲線が急に落ち込むので、「不気味の谷」と呼ばれています。
 ChatGPTは、そういう危機を迎えるのではないでしょうか。  
 実際、Open AIの出資者の一人であるイーロン・マスクなどから、「人工知能の開発を半年間ストップして、是非を議論すべきだ」という意見も出てきました。
 ChatGPTの利用に危機感をつのらせるのは、何も文筆業の人だけではないのです。
 
■ChatGPTを正しく扱えるのは、ChatGPTくらい文章が得意な人

 現時点では、ChatGPTの文章を「本当に」うまく扱える人は、ChatGPTと同等以上のレベルで書ける人間だ、とも言われています。ChatGPTのウソを見抜くだけの慎重なチェックができれば、文章作成支援システムとして、かなり有意義な使い方もできそうです。
 でも、大丈夫かな、とも思います。どんなに文章が得意で、慎重であっても、気づかないことはあるだろうし、疲れていれば見逃すこともあるでしょう。
 あの大文豪、司馬遼太郎は、いかにもありそうなウソも書いたそうです(小説ですから)。でも歴史家も小説家も「あの司馬さんが書いたことだから」と史実として信じられてしまったこともあったとか。
 我々は、大変な「両刃の剣」を持たされたのかもしれません。それこそ、慎重な扱いが必要なようです。